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災害に備え、闘ったものたち

三陸地域を繰り返し襲った津波ほかの自然災害に対して、先人たちは何を備えとし、住民の命と暮らしを守ろうとしたのか。その記録を示すものとして、各地の人工物(防潮堤・水門・人工林など)と関係する人物などを紹介します。

洋野町の防潮堤

<洋野町>

洋野町では死者・行方不明者・負傷者が無く、人的被害は免れた。これは、今回の津波被害が大きかった岩手県・宮城県・福島県の沿岸自治体では唯一である。
この要因には、12mの防潮堤による被害軽減が挙げられる。川尻地区では、10mの津波に対し、平成22年に竣工したばかりの12mの防潮堤が津波の侵入を防ぎ、被害を免れた。また、地形的な制約のため、町内で唯一防潮堤が整備されていなかった八木地区でも犠牲者が出ていないことが物語るように、防潮堤などのハード対策のみならず、官民一体となった津波防災に対する意識の高さというソフト面での対策が講じられていたことも犠牲者ゼロの要因である。

岩手県『岩手県東日本大震災津波の記録』(P056)より転載
http://www2.pref.iwate.jp/~bousai/shiryo/gakusyuu/kirokushi.html

東日本大震災での被害状況

震災前(2010.2.27)

震災後(2011.3.28)

普代水門・太田名部防潮堤 / 和村 幸得(わむら こうとく)[1909-1997]

<普代村>

普代村出身の和村幸得は、1947年(昭和22)4月に38歳で当選をはたしてから、10期40年間にわたって普代村の村長を務めました。自身も昭和8年の昭和三陸津波を経験し、過去の大津波で多数の死者が出たことを教訓に、県営事業として12年もの年月と総工費35億6千万円をかけ、1984年(昭和59)3月に普代水門(総延長205m、高さ15.5m)を完成させました。「防災事業よりも集団家屋移転の方が経済的ではないか」という考え方もあったなか、土地の有効利用、生活環境の整備を計画的に推進することができるという効果の大きさなどから、着工を決定したといわれています。この普代水門と、太田名部防潮堤(総延長155m)は、2011年(平成23)3月11日の地震により発生した大津波から集落と村民の命を守り、被害を最小限に食い止めたとして注目されました。

1987(昭和62)年4月30日、任期満了退任に際して和村は、「村民のためと確信を持って始めた仕事は、反対があっても説得してやり遂げてください。最後には理解してもらえる。これが私の置き土産の言葉です」との言葉を残しており、名誉村民第1号に選ばれています。

岩手県立図書館「いわて復興偉人伝 和村幸得」より転載
http://www.library.pref.iwate.jp/0311jisin/ijinden/06.html

東日本大震災での被害状況

震災前(2010.3.9)

震災後(2011.3.28)

(2016.3.5)

小本小学校の避難階段

<岩泉町>

大きな被害を受けた小本地区の小本小学校は、津波によって、床上浸水の被害を受け、校庭や体育館はがれきや車で埋め尽くされた。地震発生時、校内には88人の児童がいたが、1人の犠牲者を出すこともなく無事に避難することができている。その背景には、震災2年前の平成21年3月に設置された避難階段の存在がある。
小本小学校の従来の避難経路は、校舎脇の切り立った崖を避けるように迂回したルートが設定されていたが、これでは津波浸水予想地域を通りながら、いったん海方向へ進み、国道に出てから避難することとなる。この状況を案ずる住民の強い要望を受けた町長が、国土交通省三陸国道事務所に「児童が津波に向かって逃げるのはおかしい」と協議し、校舎脇の崖から直接国道に出ることができる避難階段の設置が決まったのである。
長さ約30m、130段の避難階段が設置されたことにより、児童らの避難経路は、距離が440mから150mに、時間にして5~7分程度短縮された。今回の大震災津波においては、このわずかな避難時間の短縮が児童を津波から守った大きな要因となった。

岩手県『岩手県東日本大震災津波の記録』(P046)より転載

http://www2.pref.iwate.jp/~bousai/shiryo/gakusyuu/kirokushi.html

田老の防潮堤 / 関口 松太郎(せきぐち まつたろう)[1862-1937]

<宮古市>

花輪村(現宮古市)出身の関口松太郎は、1883年(明治16)に長沢村(現宮古市)役場に勤めて以来、兵役をはさみつつも、長年の行政経験を経て、1925年(大正14)に田老村長となりました。この間、郡役所職員として、1896年(明治29)の明治三陸津波、1904年(明治37)の宮古大火など、数々の災害を経験しています。

1933年(昭和8)3月3日、田老村を最大波高10mの津波が襲います。多くの命が奪われ、家屋や漁船も大きな被害を受けましたが、関口が手早く県知事・下閉伊支庁長に救援を要請したため、救援の手は当日のうちに届きました。翌日、村会議員に非常召集がかけられ、その年の秋までには、防波堤の建造や避難道路の整備、区画整理などを含む災害復旧工事計画が立てられました。国や県は多額の費用を要する防波堤建造には冷淡で、集落全体の高所移転を復興策の基本と考えていましたが、翌年3月、田老村は村費を投じ、単独で防波堤の建造に取りかかります。復興工事視察のために県知事が来村した際、関口の復興にかける情熱と、村民の強い防災意識とが当局の理解を生み、最終的には村・県・国の三者が一体となり、防波堤の建造に取り組むこととなりました。関口は志半ばにしてこの世を去りましたが、その意志は代々の首長に引き継がれ、高さ10m、総延長約2.5kmの防波堤が、「津波防災の町」のシンボルとして築かれました。

岩手県立図書館「いわて復興偉人伝 関口松太郎」より転載
http://www.library.pref.iwate.jp/0311jisin/ijinden/05.html

東日本大震災での被害・復旧状況

発災(2011.3.11)

発災(2011.3.11)

震災後

釜石港湾口防波堤

<釜石市>

釜石港は津波の被害を受けやすい三陸海岸にあって古来から数多くの津波に襲われ尊い人命と貴重な財産を奪われてきました。この釜石湾沿岸を津波から恒久的に守るために、昭和53年から津波防止を兼ねた世界最大水深(-63m)の湾口防波堤の建設が進められてきました。
釜石港湾口防波堤は防波堤として初めて本格的な耐震設計を取り入れており、来襲津波に対し港内水位を防潮堤天端(T.P+4.0m)より低い水位に減衰させることで津波を防ぐ仕組みとなっています。

釜石港湾口防波堤は、中央部(開口部)の300mを大型船の航路として確保し、その両面に北堤(990m)と南堤(670m)の2本の防波堤をハの字型に配置したもので、大型ケーソンに消波機能を備えた構造(スリットケーソン式混成堤)となっています。更に開口部300mの航路の下には、湾の遮蔽率を上げ、津波の遡上(そじょう)を抑えるため、海底から水深-19mまで潜堤を設けています。釜石港湾口防波堤は平成20年度に完成しました。
平成22年7月27日には「世界最大水深の防波堤(Deepest breakwater)」としてギネス世界記録に認定されました。

釜石港湾口防波堤は東日本大震災によって被災を受けましたが、一定の効果があったことが分かったため、現在復旧を行っています。

国土交通省 東北地方整備局 釜石港湾事務所ホームページより転載
http://www.pa.thr.mlit.go.jp/kamaishi/port/kamaishi-port/

東日本大震災での被害・復旧状況

大船渡港湾口防波堤

<大船渡市>

昭和35年5月南米チリで発生した地震による津波はおおよそ一昼夜をへて、我が国の太平洋沿岸に来襲し各地に甚大な被害を与えました。この内大船渡市では死者・行方不明者は53人を数え、被害総額は42億円余の巨額に達しました。その後、このような災害から大船渡の多数の尊い生命と財産を守るため、特別措置法を制定し、運輸省直轄施工により昭和38年から4カ年の歳月と19億円の巨額を投じて建設されたのが、この大船渡港湾口防波堤です。

この湾口防波堤の特徴は、目的が津波対策のため、津波来襲時の海水流入量の制限を行う必要があり、中央開口部を10万トン級の船舶が入港可能な水深(-16.3m)に規定し、潜堤を建設しています。また、地形的には最大水深が-38mに及ぶ大水深防波堤で、中央防波堤部分では堤体の平均高さが40mにも及んでいる部分もあります。防波堤標準部の構造は、基礎捨石上にケーソンを据付、上部にコンクリートを現場打設しています。また、開口部は-22.3mまで基礎捨石を行い、この上に高さ6mの鋼製セルを据付け、中詰めをプレパック土コンクリートによって現場打設した構造となっています。

完成から約40年間、大船渡市を津波や波浪から守り続けました。湾口防波堤は東日本大震災で被災をうけましたが、復旧工事を行っています。

国土交通省 東北地方整備局 釜石港湾事務所ホームページより転載
http://www.pa.thr.mlit.go.jp/kamaishi/port/kamaishi-port/

東日本大震災での被害・復旧状況

震災後(2011.4.18)

復旧中

復旧(2016.3.13)

高田松原 / 菅野 杢之助(かんの もくのすけ)[1617-1671]
松坂 新右衛門(まつざか しんうえもん)[1672-1754]

<陸前高田市>

東北地方太平洋沖地震※にともなう大津波により、国指定の名勝でもある高田松原は壊滅的な被害を受けました。背後に控えていた防潮堤さえも押し流されてしまいましたが、一本の松が奇跡的に生き残りました。

松原が広がっていた地域は、旧高田村と旧今泉村にまたがっており、もともとは木一本ない砂原で、潮風が巻き上げる砂塵と高潮とにさらされ、背後にある農地は収穫のない年もしばしばという有様でした。この状況を改善しようと立ち上がったのが、菅野杢之助と松坂新右衛門です。杢之助は高田村出身の豪農で、奉行の命令により防風・防潮のための松植林を行いましたが、後に私財を投じて植林を行っています。杢之助は松林の成長を見ることなくこの世を去りますが、彼の遺志を継いだ子孫の手により、数十年かけて松林が整備されました。新右衛門は仙台藩山田村に生まれ、長じて今泉村の松坂家に入婿しました。彼もまた、新田開発のために多額の私財を投じて松の植林を行っています。このように、先人の努力により白砂青松の景勝地となった高田松原ですが、過去幾度となく津波の被害を受け、壊滅の危機に瀕しています。そして、その度に松が植えられてきました。今は一本だけしかない松ですが、先人の遺志を継ぐ人たちの手により松が植えられ、いつかきっと、私たちの子孫の目を愉しませてくれることでしょう。

※気象庁命名。地震及びこれに伴う原子力発電所事故による災害を「東日本大震災」と呼称

岩手県立図書館「いわて復興偉人伝 余禄1:高田松原を育てた先人たち 菅野杢之助 松坂新右衛門」より転載
http://www.library.pref.iwate.jp/0311jisin/ijinden/09.html

東日本大震災での被害・復旧状況

震災前(2010.3.14)

震災後(2011.4.18)